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坂本城石垣の場所と謎~琵琶湖に眠る明智光秀の遺産と城跡に残るゆかりの地

明智光秀は正確な生まれや育ちがわかっておらず、謎が多い武将ですが、信長に仕えてからは異例の出世を果たしたことで有名ですよね。

坂本城は光秀が信長の命を受け、京と比叡山の抑えとして築城されたお城です。琵琶湖に面した水城は船で乗り入れができ、安土城に次ぐ名城と称賛されたお城でした。

この記事では、明智光秀の居城だった坂本城と、その周辺に残る光秀ゆかりの場所、御城印についてご紹介します。

今はない幻の坂本城を想像しながら、光秀の足跡をたどってみませんか?

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坂本城石垣の発見された場所は?

坂本城石垣の発見の経緯

坂本城の石垣が発見されたのは、2021年11月。琵琶湖の水位が低下した際、これまで地表面から姿を消していた坂本城の石垣が湖底から出現しました。

明智光秀が築いたとされる坂本城は、絵図も痕跡も残っていないので「幻の城」と呼ばれてきました。そのため、石垣が発見されたことは歴史における大発見となり、大きな話題となりました。

さらに2024年2月には、宅地造成の途中で新たな石垣が滋賀県大津市で発見され、約30メートルにわたって確認されました。

予想していた場所とは違った場所(本丸跡石垣から約330mほど西)から出てきたことで、城の規模の推定につながりそうです。

琵琶湖の中の石垣の場所は?

びわ湖

琵琶湖の水位が下がると現れる坂本城の石垣…と言っても、石垣の一番下の礎石部分がまっすぐ並んでいるのが分かるくらいです。

坂本城の石垣の行き方は、坂本城址公園から県道558号線(高島大津線)を北に行くと、右側に細いあぜ道があって、そこを入っていくと琵琶湖のほとりに出ます。

※田んぼや私有地に入らないように注意してくださいね。

大津市で発見された石垣は、現在、見学することはできません。

発見された石垣の特徴は?

発見された坂本城の石垣の特徴は、天然石を使用し、「野面積み」で積み上げられていたこと。野面積みは、石を加工せずに自然な形状のまま積み上げる手法で、当時の城郭建築の特徴を色濃く残しています。

また、石垣の一部には「根石(礎石)」が見つかり、石垣全体の構造を支える重要な役割を果たしていたことが判明しています。

坂本城の堀も発見されていて、その幅は約8メートル。これらの石垣と堀は、城の外郭を形成していたとされ、幻の坂本城の全貌を知る貴重な手掛かりとなります。

研究や調査が進むことで、坂本城石垣の新たな発見や、それにまつわる歴史的事実が明かされていくといいですね。

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明智光秀の坂本城とゆかりの地

明智城跡の石碑

坂本城の遺構は残っておらず、ほとんどが道路や民家の下に埋もれています。

坂本城の資料はほとんど残されてなく、城内とされるエリアには、坂本城に関連する碑や塚などが残されています。

坂本城址公園の明智光秀像

坂本城址公園の明智光秀像

坂本城の最南部と思われる場所にある坂本城址公園には、柔らかい笑顔の明智光秀の銅像が立っています。公園は琵琶湖に面していて、広くはないんですが、ゆっくりくつろげる場所になっています。

本能寺の変のあと、光秀は「山崎の戦い」で秀吉に敗れ、坂本城へ戻る途中で落ち武者狩りにあい殺害されました。

坂本城は秀吉軍に包囲され、明智左馬助光春が応戦するも力尽き、本丸に火を放って自刀したと伝わっています。

落城後は再建されたものの、4年後には大津城築城のため資材が使用され、坂本城は幻のごとく消えてしまいました。(その後、大津城は彦根城築城の際にリユースされています。)

公園内には坂本城の歴史について学べる案内板が設置されています。

坂本城址公園
住所:滋賀県大津市下阪本3-1
開園時間:常時
駐車場:10台ほど分の無料駐車場あり
※県道558号線(高島大津線)沿いの入り口に坂本城址の石碑が建っています。

坂本城址の碑

坂本城址の碑

明智城址公園から北西に行った住宅街の中に、坂本城址の石碑が建っています。

光秀は信長から丹波の国を与えられ、1578年に亀山城を築城し城主となった後も、坂本城もそのまま城主として支配していました。

1573年に築かれた坂本城は、1582年に焼失するまで、明智家の復興を願い一国一城の主となった光秀にとって、一番大切な場所だったんですね。

石碑の西側(写真↑奥、道の突き当り)には東南寺があります。

お地蔵様の塚がある東西寺

滋賀県東西寺

東南寺の入り口を入ると本堂があり、南側に鐘楼、西側に石仏を積み上げた塚が2つあります。

坂本城落城の際に亡くなった戦死者の首塚という言い伝えもありましたが、実際は明治になってから、道端にあったお地蔵様を集められて塚になったようです。

東南寺川の改修工事で見つかったお地蔵様も、この塚に祀られています。

東南寺
住所:滋賀県大津市下坂本3-6-14

坂本城跡に残る明智塚

坂本城跡に残る明智塚

東南寺から北東、県道558号線沿いに石灯篭があり、その奥に「明智塚」があります。坂本城落城の際に佐馬助が光秀の脇差を埋めたとか、佐馬助の首が埋まってるとか、明智一族の墓だとか、いろいろな言い伝えが残っています。

発掘調査をすればはっきりするのかもしれませんが、「触ると祟りがある」との言い伝えもあり、そのまま大切に保存され、毎年坂本城が落城した6月15日に法要が行われています。

明智塚
住所:滋賀県大津市下阪本3-5-35
※駐車場はありません。

聖衆来迎寺の表門

聖衆来迎寺の表門

明智塚から県道558号線を北に向かうと「聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)」があり、表門は坂本城の門を移築したものです。

1570年の姉川の合戦で、織田信長軍と戦って敗れた浅井長政は、越前の朝倉義景と合流して京に向かっていました。それを阻止しようと信長軍の武将・森可成(もりよしなり・森蘭丸の父)が坂本で待ち構えていました。

けれど、延暦寺の僧兵が浅井・朝倉軍に加勢し、森可成は討死。浅井・朝倉軍の圧倒的勝利となりました。(このことが、のちの比叡山焼き討ちの要因の1つになります。)

聖衆来迎寺の住職は、比叡山延暦寺側(浅井・朝倉軍に味方する立場で信長軍の敵)だったものの、死者に敵味方はないと、森可成の遺体を寺に運んで葬りました。

その後の信長の比叡山焼き討ちでは、寺院や坂本の町は燃やされ、僧も虐殺されましたが、聖衆来迎寺だけは恩義を感じて?焼き討ちをしなかったそうです。

そしてその後、坂本城主となった明智光秀は聖衆来迎寺を保護し、陣鐘などを寄進しています。

聖衆来迎寺
住所:滋賀県大津市比叡辻2-4-17
電話番号:077-578-0222
※見学は要予約(500円) 9:00~15:00(表門はいつでも見ることができます)
参拝者用無料駐車場(普通車20台)あり。
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坂本城の御城印はどこにある?

坂本城の御城印は、下記の場所で取り扱いがあります。

  • 坂本観光案内所(9:30~16:30)
  • 坂本ケーブル駅(3月~12月:8:00~17:30 12月~2月:8:30~17:00)
  • 石山駅観光案内所(9:00~18:00)
  • 堅田駅前観光案内所(9:00~18:00)
  • 大津市歴史博物館・大津市立市民文化会館1FカフェレストランIntiインティ(9:00~17:00、定休日は月曜日(祝日は翌平日休み)・祝日の翌日(土日は営業)・お盆・年末年始)

大津市丸屋町商店街にある「ここ滋賀SHIGA」では、滋賀県産の杉間伐材でできた坂本城の木製御城印が販売されています。0.2mmの薄い板で、交通手形のような五角形、とっても珍しい御城印です。

大津6城(大津城、坂本城、宇佐山城、膳所城、瀬田城、笠壺山城)が用意されていて、1枚800円(税込)。

ほかにも、御城印シールが販売されていて、彦根城や長浜城など、滋賀県内のお城24種類揃っています(1枚330円)。

ここ滋賀 SHIGA
住所:滋賀県大津市中央1-2-31 丸屋町商店街内
営業時間:10:00~17:30
定休日:火曜

大津エリアには雄琴温泉もあり、京都からも湖西線で乗り換えなしで行けちゃいます。比叡山延暦寺の門前町として栄えた坂本を歩くのもおすすめです。

※情報が変更されている場合もありますので、公式サイトなどで最新情報をご確認くださいね。

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さいごに

明智光秀の居城だった坂本城と、その周辺に残る光秀ゆかりの場所、御城印についてお伝えしました。

坂本城址公園の明智光秀像は、遠くからみたら「埴輪(はにわ)」みたいに見えるんですよね。ちょっとずんぐりむっくりしてて、かわいらしい印象です。

明智光秀が信長とともに「大きな国」を作ろうと奔走し、武将としての業績を残した坂本城。今は消えてしまった幻の城ですが、その痕跡は今も大切に守られています。

>>坂本城址公園がある滋賀県坂本エリアの観光情報はこちら【楽天たびノート】