【ペトラ遺跡】犠牲祭壇と円形劇場・王家の墓から知るナバテア人の死生観

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エル・ハズネからファサード通りを抜けて、円形劇場の左手(WHY NOT SHOPの脇)に階段があります。そこを上がっていくと、犠牲祭壇があります。

登り口でウロウロしていたら、上から降りてきた外国人観光客が、「素晴らしい景色だから、行く価値はあるよ!」と声をかけてくれました。

ならば、と意を決して、上ってみました。

空に近い犠牲祭壇

犠牲祭壇へ行くには、急な登り階段がジグザグに800段以上続くんです。途中で何回引き返そうかと思ったか…細かい砂が階段を覆って、滑りそうになります。

1歩1歩踏みしめながら、登っていくしかありません。

何度か休憩しながら、ひたすら頂上を目指すこと45分。階段が途切れ、上を見上げると2本のオベリスクが立っています。「着いたぁ」と思わず声が出ちゃいます。

オベリスクは6mほどの高さで、上から彫られたものだそうです。この2本の間は30mほど離れていて、そこを残して彫り下げて作り上げた、なんて、一体どのくらいの時間をかけたのでしょうか?

ナバテア人の神(ドゥシャラとアル・ウッツァ)に捧げられたオベリスクは、太陽の光を受けて輝き、神聖な場所に影を落としています。

祭壇周りも岩上を削って平らにして、作られています。雨水を貯めていた水槽があり、司祭が身を清めるのに使っていたそうです。

ナバテア人の司祭たちはここで、神々に捧げる宗教儀式を行っていました。円形の石の祭壇では、動物を殺すときに使用され、血液を流す排水溝が作られています。

そして、そのいけにえを階段のある祭壇に捧げていました。ここの祭壇だけは火が使われた形跡があり、祭壇の横には洗面台のような水槽があります。(ペトラの他の祭壇では火が使われた形跡は見つかっていないそうです。)

上から眺めるペトラの遺跡群は壮大で、そんな中にラクダやロバを移動させるベドウィンや、ヤギを連れて移動している子供たちなど、この地で日常を過ごす人たちの生活が見えてきます。

遺跡を歩き回る観光客、馬で遺跡を見まわる警備員、そして、すべてを包み込むように悠然とたたずむ岩壁の遺跡。歩いてるだけでは見えない遺跡も、上から確認することができました。

ここから更に南奥には、ライオンのモニュメント、庭墓、ローマ兵の墓があるのですが、もう足がこれ以上の酷使に耐えられなくなっていました。諦めて、上ってきた階段をまた降りて戻ることにしました。

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サウジアラビアにあるナバテア人の遺跡

ペトラから南へ約320Kmのサウジアラビア北西部に、ペトラと同じようにナバテア人が作ったとされる墓が130ほど見つかっています。

マダイン・サーレハ、別名アル・ヒジュル(岩だらけの町)と呼ばれています。

紀元前1世紀~紀元1世紀に作られたもので、砂漠の上に点々と散らばる巨大な奇岩をくりぬいて内部を空洞化し、正面を平らにして彫刻で装飾された神殿やお墓が作られています。

ペトラと同じく上部には階段状の彫刻(魂がこの階段を上って天国に行く)があり、ナバテア人の死生観はいつの時代も変わらず、身体に刻み込まれているようです。

マダイン・サーレハはペトラに次ぐナバテア人の考古遺跡で、2008年サウジアラビア初の世界遺産に登録されました。

しかし、コーランの中で、罪を受けた呪われた場所とされていて、観光ツアーがなく、個人的に手配して行くしかない場所になっています。

そこでは、誰が墓を建て、誰が埋葬されているかを記した碑文が残されていました。碑文には、アル・ウッツァ神に年に一度、少年の喉を掻き切って捧げた、というようなことも書かれていたそうです。

ペトラの犠牲祭壇では、子供が捧げられたのかどうかは分かりませんが、一般の人々の儀式の参加は認められていなかったようなので、もしかしたら・・・かもしれません。

円形劇場

犠牲祭壇のふもと、ペトラの中心部にある円形劇場は、音響効果を計算して、音が反響するように作られています。しかし、ここは劇場として使われたのではなく、ナバテア王の葬儀場として作られました。

ローマに支配されたときに、ローマ人によって作られたと考えられていましたが、実際はローマに支配されるずっと前に建設されていました。通路で区切られた3列の席で構成され、5千人ほどが収容できる大きさです。

劇場背部にある洞窟から人骨が発見されており、ペトラ遺跡842の遺構の9割が、お墓や葬式を行う場所とされています。

エジプトのピラミッドもそうですが、死ぬということは、人生の中で最大のセレモニーであり、神聖な儀式だったんですね。

ナバテア人の住居跡は、2Km離れたワディ・ムーサの町中にあり、ペトラは死者のための町だったのです。

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王家の墓

柱廊通りから左の上りルート、円形劇場の右側に王家の墓が並んでいます。

アーン(壺)の墓は、ファサードのてっぺんに壺が置かれているので、その名がつきました。70年ごろに建設されたもので、446年にピザンチン様式の教会として改築され、下部のアーチが増築されました。

メインの入り口の真上に3つの埋葬室があります。メインの部屋の奥の壁に、3つの洞窟があり、447年に教会として墓を奉献したことが記されています。

シルクの墓は、幅10.8m高さは19mで、中央に扉と4つの柱があります。名前の由来は、砂岩の色合いが一番カラフルなので虹の墓とも呼ばれています。

コリントスの墓は、西暦40年から70年に作られました。幅27.55m高さは26mで、エル・ハズネに似た形をしています。墓の中には3つの正方形の部屋と、左側に大きな部屋があります。

コリントスの墓の北側(写真左)には、幅49m高さ46mの宮殿の墓があります。下部は12の柱と4つの入り口、上部には18本の柱があります。

4つの入り口から4つの部屋につながっていています。宮殿の墓はとても大きく、宮殿のようなのでこの名がついたそうです。

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